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		琉球絣。その言葉を思い浮かべるだけで、ワクワクする。もう何十年も、その気持ちは変わらない。 
		発端は、日本民藝館だ。 
		織りを勉強していた20代のころ、仲間たちとよく遊びに行っていた民藝館は、多くの琉球絣を所蔵している。 
		ほかにも日本各地の染織を所蔵している民藝館なのに、 
		なぜか記憶に残っているのは、ほぼ琉球絣だけ。 
		いつ行っても、必ず琉球絣を見ては、頬を緩ませていた。 
		挙げ句の果てに、友人たちと絣括りの真似事をしてみたり。まともな布ができた記憶はないが…。
  
		琉球絣とは、琉球で織られた絣織物のことで、 
		日本民藝館に残っている古い時代のものは、琉球、今の沖縄県内各地で織られていた織物だと推測される。 
		絣の技法はインドに発祥し、東南アジアを経て琉球に伝わり、その後、日本各地に伝播していった。 
		今、琉球絣産地の代表格として知られる南風原の織物産業は、 
		もともと絣織物の産地であった那覇の出機(でばた。織りの工程のアウトソーシング)の地として歴史が始まる。 
		そして、沖縄全土が米軍の火炎放射器によって焼き尽くされ戦争が終わった時、 
		ほかの産地に先駆けていち早く織物産業を復興させたのが、南風原なのだ。
  
		若いころに出合ってから何十年かの時を経て、琉球絣の産地南風原を訪ねてみることになった。 
		壺屋近くからバスに乗って南風原町役場前まで。 
		前日、喜如嘉から長距離を乗り継いで帰って来たせいか、ずいぶん近く感じる。実際、地図で見ても近い。 
		南風原町本部の集落を囲む尾根を登って下りて、さんざん迷って、たどり着いたのは、丸正織物さん。 
		Facebookページだけのおつきあいの大城幸正さんに図々しくもお願いして、ご紹介いただいた織元さんだ。 
		大城友子さん、幸司さん親子が出迎えてくださった。 
		30代前半とお見受けする幸司さんは、ほかの仕事を経て、家業を継いだという。 
		南風原でも若い人が後を継ぐ例が珍しくなっているなか、琉球絣について熱く語る幸司さんは、なんとも頼もしい。 
		丸正織物さんは、着尺や帯が主な製品。木綿や麻が多かった絣織物が、 
		現在のように絹主流になったのは、本土に売るようになってからだという話は興味深い。 
		需要に合わせて供給していった柔軟性が琉球絣の存続を支えているということか。
		 
		
		いくつか見せてくださった踊り衣装用の着尺は、おなじみの谷茶前格子や南国らしい鮮やかな反物。
		 
		     
		
		こちらはドラゴンフルーツを思わせる。
		 
		  
		
		南風原の琉球絣は、分業が普及していて、業種は大きく分けると、染め、括り、織りに分かれる。 
		それぞれの業種も後継者問題には悩まされていて、仕事が途絶える例も出てきているようで、 
		そういった仕事は織元で吸収していかなければ、全体の仕事が滞る。 
		秩父銘仙の新啓織物さんでも、やはり分業体制の崩壊によって、 
		ご自分のところで引き継ぐパートが増えていると伺ったことがある。 
		大城幸司さんによれば、そうして違う業種も引き受けて担っていく織元のほうが、力強く残っていく傾向にあるという。 
		丸正織物さんでは、括りはお父様の担当だそう。
  
		織りの仕事は、機に掛けるまでの作業が全体の工程の8割を占める。 
		デザインから始めて、すべての工程を一人で行うと、機前に座って織りに取りかかるころには、 
		すでにその作品に飽きてしまっていた昔の自分を思い出す。 
		私がプロにならなかった、たくさんある理由の一つにこれがある。 
		私のような根性なしではないにしても、 
		着尺のような長い織物を最後まで仕上げるモチベーションを保ち続けるのは容易なことではない。 
		だから、個人作家として織物を続けている人には、無条件で尊敬の念を抱く。
  
		しかし、ある地域に個人作家が何人いようとも、その地域の産業として成り立たせ存続させていくことは難しいと思う。 
		作家個人には寿命があり、命尽きるまで制作を続ける覚悟や意欲があったとしても、 
		この重労働すべてを高齢になっても続けることは物理的に不可能だ。 
		もちろん、現実にはお弟子さんという、いわば陰の存在がいて作家をサポートしているのだが。
  
		一方で、南風原の琉球絣や秩父銘仙のように一時代を築いた織物産地では分業化が進み、効率化が図られた。 
		地域の中でそれぞれが得意分野を持ち、分業体制を敷き、地域全体が潤えば、それは産業となる。 
		製品は作家ものより多くできるわけだから、価格も手が届くものになりやすい。 
		また、産地としては沖縄の中でも大きな集団といえる南風原の地だからこそ、 
		沖縄で唯一残った織機製作所が今も稼働しているのだろう。 
		産業を支える、こうした環境があることも重要である。 
		材料や道具といった、染織を支えるいくつもの流れが、染織という大きな流れに注ぎ込み、 
		流域全体で一つの産業を形づくっている。 
		小さな流れのどれか一つでも枯れてしまうと、産業を維持することが難しくなるだろう。
  
		また、伝統工芸が将来にわたって存続していくためには、買って使ってくれる人がたくさんいることが肝心だ。 
		消費者の私たちとしては、美術品として愛でるのではなく、何度も袖を通して我が身になじませることを楽しみたい。 
		生産者の立場の大城幸司さんは作家という言葉に抵抗を覚えるらしい。 
		「やっぱり今の僕は、物を作って買ってもらって着てもらうというシンプルなほうに考えが落ち着きます」 
		というメールをいただき、その潔さに、正直心を打たれた。
  
		丸正織物さんの2か所に分かれた工房では、それぞれ数名の織り手たちが機に向かっていた。 
		伝統的な絣柄と現代的でさわやかな色合いが素敵だ。 
		そしてもう一つ、とても心惹かれたのが糸綜絖の美しさ。 
		一台の機に千本以上の綜絖が必要になるだろうか。 
		いったい誰がどこで、こんな手間のかかる物を作っているのだろう。 
		また知りたいことが一つ増えてしまった。これについては、またいつか書いてみたいと思う。
  
		丸正織物の大城さんには「見学させてください。お話伺わせてください」と事前に電話でお願いしたものの、 
		得体の知れないおばさんの闖入に戸惑われたことと思う。 
		それなのに快く受け入れてくださり、感謝申し上げたい。 
		そしてまたいつか琉球絣の話をたっぷりしましょう。
  
		今回、沖縄の2つの対照的な織物産地を訪ねるうちに、織物そのものの美しさもさることながら、 
		それを担う人や、取り巻く環境のほうに心が捕らわれてしまった。 
		「こんなきれいな布を見ましたよ」と写真いっぱいのレポートにしようと思っていた当初の目論見が 
		いとも簡単に吹き飛んでしまい、美しい琉球絣の画像を期待して当サイトを訪れた方には申し訳ない気がする。 
		でも、美しい伝統織物の背後にある産地の心意気や苦労に、 
		少しでも多くの人が思いを致してくれることを願って、このレポートをアップします。
		 
		文・写真 八谷浩美 
		15 June 2015 
		
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